「フェートン号」カテゴリーアーカイブ

父 エドワード・ペリュー提督

ナポレオンのヨーロッパ支配をめぐって、イギリスの挑戦が続く中で突発的に起こったフェートン号事件。その背景には多くの魅力的な人物たちと、その色合い濃いキャラクターのせめぎあいが特徴的である。なかでも、日本にはあまり知られていないエドワード・ペリュー提督については、これまで日本側の注目は全くなかった。そこに焦点を当てたのが、”実録フェートン号事件「フェートン号の襲撃」”である。https://shugeki.phaetonmuseum.com

エドワード・ペリュー提督、当時英海軍インド洋艦隊司令長官。トラファルガー海戦でネルソンが戦死して軍神になる前は、彼こそが国民的英雄だった。今も海洋小説「ホーンブロワー」の主人公として名声を馳せている。貧窮の中に育ち水兵から叩き上げて提督まで昇り詰めた彼は、息子たちへの庇護愛と敵艦から奪った財宝(合法的に艦長に優先的に配分される)に並々ならぬ執着を見せる。念願の英国帰還が叶うと、後任長官の反対を押し切って次男フリートウッド・ペリュー(フェートン号の若き艦長)を日本遠征に旅立たせる。将来の提督への道、さらにはロンドン社交界で一流の名士になるための資金。長崎と行き来するオランダ船を襲えば、積載する莫大な富(銅だけでも現在価値で8億円以上)が手に入るのだ。

フェートン号の航海日誌と、その背景に見える世界と日本 

今、誰の目にも触れることなく長崎歴史文化博物館に眠る「英軍艦フェートン号の航海日誌」。その表紙と、1808年9月19日の日誌の分析をここに掲載しています。全日誌は、タイトルバーの「フェートン号の航海日誌(実物)」をクリックしてご覧ください。

 

英艦フェートン号の航海日誌は、1808年7月9日に始まる。翌日インドのマドラス港を出航し、86日後の10月4日オランダ旗を偽装して長崎に出現した。日本では文化5年8月15日である。

この航海日誌の原本は、長崎歴史文化博物館に眠っている。いつどのような経緯でこの航海日誌が長崎にあるのかは詳らかではないが、戦前のことであるのは間違いない。長崎在住と思われる小野三平という人の、翻訳苦労話が長崎図書館に残っているからだ。この人は自身が船乗りだった人で、その専門知識を活かして苦心惨憺して昭和16年前後に翻訳を完成させたようだ。残念ながら、その翻訳そのものは図書館には残されていない。あるいは小野氏も翻訳原稿も、原爆の災厄にあったのかも知れない。

この小野氏によると、この日誌はフェートン号に乗り組んでいたスコッツデールという尉官(小野氏によれば大尉)が筆記したものだそうである。正規の航海日誌なのか、あるいは彼が自分のために残した日誌なのかは判らないが、当時は士官として航海日誌を自分用に書きとめておくことは当たり前のことだったようだ。

私は三十数年前、この日誌が長崎にあることを偶然知り、当時保管していた長崎文化博物館(丘の上、平野町にあった。今は原爆資料館に代わっている)でその一部を複写することが出来た。その当時は流麗な手書き英文を読み解くことは殆ど出来なかったが、今日のデジタル技術のおかげで写本をスキャンし、コンピュータで拡大して読むことが自由自在になって原文の解析がずいぶんとやりやすくなった。また航海日誌であるだけに内容に定型があり、一部の解読が進めばそれを他の部分でも応用できる。こうして不思議なほどするすると解読が進んだのである。2012年のことだ。

また、インターネットの進展にも大いに助けられた。もし二十年前だったら、私がネットで入手出来た情報を手に入れるためには世界のあちこちへ訪ねなければならなかったろう。

私は日誌を読み進めることによって三百人の乗組員とともにインド洋を超え、遥か長崎への苦難に満ちた航海を共にすることが出来た。二百十数年の時を超えて、彼等の日常が、苦しみと呻きが、ほんのたまにだけ訪れる小さな喜びが、私の中に響いて来るのである。彼等の数ヶ月の遠征は、彼等の想像力が及ぶ以上に当時の日本に深甚な衝撃を与え、そしてまた彼等の母国英国にもオランダにも消えることのない事績として永遠に記憶されることになった。だが、彼等の殆どがそれを知ることもなく、歴史の波の中にその影を飲み込まれていった。

私は、彼等のために、そしてまた否応無く彼等と対峙して運命を翻弄された人々のためにも、彼等の航海を再現してみようと思う。

Charles Boddam  Scotdaleの日誌は1808年7月9日インドのマドラスから始まり、1809年9月インドのマドラスで終わる。書き出しの7月9日が1808年とフェートン号とを歴史上で分かち合えぬ年にした、その引き金が引かれた日であることは間違いない。とするとこの日を期して航海日誌を書き始めたスコツデールには何らかの強い決意があったに違いない。彼は知っていたのだ。この航海がかつてない冒険であることを。もう一人間違いなく知っていたのは若き艦長Fleetwood Pellewである。(この解説テキストは引き続き編集中です)

石橋正明