乗組員リスト

艦長(Captain) フリートウッド・ペリュー/Fletwood Pellew 19歳10か月 生年 1789年12月13日
19歳ではあるが、1806年17歳の時、父エドワード・ペリュー提督率いるバタビア攻撃戦において、少数の部下を率いて小艇でオランダ艦隊に乗付け、軍艦/フリゲート艦1隻・ブリッグ艦7隻、武装商船20隻を破壊/捕獲する勲功を上げ、父から「艦隊の花」と称揚された筋金入りの若き海軍士官。

船長(Master)  氏名年齢不詳 長崎でフェートン号に拉致された二人のオランダ人の証言と、食料などを補給に届けたオランダ通詞の証言に、船長らしい人物の存在がほのめかされている。船長とは、操船の専門家/責任者。艦の戦闘時の指揮命令系統には入らない。

副官や士官 数名の士官が搭乗している筈であるが、氏名年齢ともに不詳。杉浦昭典名誉教授によると、フリゲート艦は通常3名搭乗。

Master’s Mate   チャールス・ボダム・ストックデール/Charles Bodam Stockdale 生年不詳。
Master’s Mateは船長Masterを補佐する上級下士官。ストックデールは1804年に海軍に士官候補生Midshipmanとして入隊、1808年7月9日、すなわちフェートン号がマドラスを出航する前日にMaster’s Mateに昇格した(フェートン号への乗艦もこの日か?)ので、士官Lieutenant任官準備中である。恐らく20代初めの年齢と推定される。操船を指揮するMaster船長を補佐する。航海中の艦の進路、風向き、操帆作業の詳細、測定した海の深度、六分儀による艦の位置測定などを記録する航海日誌の記述責任者。この日誌は士官Liuetenant昇格面接試験の重要な審査資料となる。

掌帆長(甲板長)補 Boatswain’s Mate   トム・ダールTom Dar/またはサム・ダールSam Dur 生年不詳。
9月19日、五島沖南西130㎞、長崎西230㎞の東シナ海でオランダ商船を捜索哨戒中に水兵(James Stewart)がマスト上から海へ転落する事故が起こったが、即座に救助のために海へ飛び込んだ勇敢なMaster’s Mateの名前が航海日誌に記録されている。救助空しく転落した水兵は海中に没した。Boatswain’s Mateは Boatswain掌帆長(甲板長)の補佐をする上級下士官。操舵、操帆の実施監督者。名前以上の詳細は記録されていない。Boatswainは日本語読みでボースン。

水兵 水兵の詳細は一切記録されていないが、長崎への航海中の死亡者と、懲罰で鞭打ち処分にされた兵員の名前が記されている。
(1)Seaman水兵 Christopher Garry リストファー・ギャリー 35歳 7月22日マドラス出航後12日目にマラッカ入港直前の豪雨の夜死亡。病名不明。
(2)Carpenter(船匠長)John Stanford ジョン・スタンフォード 年齢不詳 8月9日午前4時、海南島南東300㎞、寄港地マカオまで400㎞の海上で死亡。病名不明。以後、ギャリーの役目はCarpenter’s Mateが引き継いだと思われる。部下のCarpenter Crewは5名ほどと想定される。
(3)Edes Hales Dussnoscer 職務年齢不詳 マカオに寄港して水や食料を補給している日々のことであった。詳細記述はない。
(4)Seaman水兵 James Stewart ジェームズ・スチュアート 五島沖でマストから海上に転落して死亡。トム・ダールが索を掴んで救助に向かったが、そのまま海中に没した。マスト上の作業は技術が必要なので、ジェームズはAble Seaman(上級水兵)だった可能性がある。

以下は、懲罰で日誌に名前が記載された分である。
(5)Welt Boosd ウエルト・ブースト  職務年齢不詳 8月11日、マカオ寄港中にInsolence(傲慢横柄な行動)で鞭打ち24回の刑。“傲慢横柄な行動”は恐らく士官への反抗的な態度を見せたか、あるいは侮辱するような言葉を吐いたのであろう。
(6)Marine海兵 Robert Hanson ロバート・ハンソン 9月1日、マカオ出向の翌日、窃盗罪で鞭打ち刑18回。さらに職務怠慢で鞭打ち刑36回。窃盗は艦内の酒樽#389から7ガロンのアラック酒が消えた件であろう。
(7)Seaman水兵 Lewis Martin ルイス・マーチン 上記(6)と一緒に職務怠慢で鞭打ち刑24回。
(8)Marine海兵 Robert Anson ロバート・アンソン (6)のRobert Hanson ロバート・ハンソンと同一人物の可能性が高い。ストックデールの誤記か? 9月15日東シナ海を哨戒中に窃盗で鞭打ち刑12回。またアラック酒を盗んだのだろうか。
(9)Seaman水兵 George Morris ジョージ・モリス 同じく9月15日、上官侮辱罪で鞭打ち刑24回。

オランダ人水兵 乗組んでいたのがすべてイギリス兵だったのではない。長崎港口で、旗合わせのオランダ人を拉致するためにオランダ語を使って応答し、拉致後はフリートウッド・ペリュー艦長の尋問に立ち会って通訳したオランダ人の水兵がいた。ドゥーフが書いた「長崎オランダ商館日記」211pには、
(10)Metzelaar メッツェラール カラカス生まれ、とある。職務年齢不詳である。エリザベート号(オランダ商船か?)に水夫として乗り組んでいて英軍に捕らえられたという。この長崎遠征のために通訳として使うために乗艦させたのであろう。このことからフェートン号の目的はオランダ船拿捕であったことがわかる。また、拉致されたオランダ商館員の証言では、その他にも数名の外国人水兵がいたそうだ。

乗組員総数 ペリュー艦長は、拉致したオランダ人にフェートン号には350人が乗り組んでいると語ったが、フェートン号(ミネルバ級フリゲート艦)クラスには通常250人から300人が乗り組んでいる。当時、英海軍のどの艦も常に兵員不足に悩まされていた。それは水兵の日常が商船に比べてあまりにも厳しいからだ。鞭打ち刑などその典型だろう。商船に比べて良いのは、酒と食事(酒と牛肉は水兵勧誘の数少ないインセンティブだった)。そのため常に商船から強制的に水夫を徴発して水兵として乗艦させていた。フリートウッド・ペリュー艦長の父、インド洋艦隊司令長官のエドワード・ペリュー提督は東インド会社商船の船長たちから連名で「度重なる強制徴発のために商船運航に重大な支障が生じている」と抗議されているほどだ。
敵地に侵入したペリュー艦長が自分の兵力を過大に表現するのは当然だろう。だが350人は多すぎると思われる。日本への遠征に備えて十分なの乗組員を供給されたとしても、320人から330人前後が実際の員数ではなかったろうか。