オランダの盛衰

私がオランダと最初に出会ったのはシーザーのガリア戦記ではなかったろうか。下記地図をBATAVIがバタビア(ジャカルタ)との関連でのちのオランダであろうと想像しやすかったのだしかしまたまたバタヴィ族だけがオランダではなく歴史学的には、現代オランダ人の形成過程はより複雑で、バタヴィ族の他にもフリジア族フランク族サクソン族など、複数の部族の影響を受けていると言う。 オランダの興隆は16世紀末から17世紀にかけて始まった。特に以下の重要な転換点があった: 1. ネーデルラント連邦共和国の成立(1581年) – スペインからの独立宣言(八十年戦争の過程で)をした – 世界初の共和国型国家の一つとして注目された – 宗教的寛容政策により、各地からの知識人や商人を惹きつけた 2. アントワープの没落とアムステルダムの台頭(1585年前後) – スペインによるアントワープ占領があった – 多くの商人や職人がアムステルダムへ移住した – バルト海貿易の中心地としての地位を確立した 3. 黄金時代(17世紀) – オランダ東インド会社(VOC)を設立した(1602年) – 世界最大の商船団を保有した – 最先端の金融技術(アムステルダム取引所、アムステルダム銀行)を発展させた – 科学・芸術(レンブラント、フェルメールなど)が発展した – アジア貿易の独占的地位を確立した このように、宗教改革、独立戦争、そして商業革命が重なり合う形で、オランダは急速に台頭していった。特に注目すべきは、当時としては革新的であった株式会社制度や近代的な金融システムの確立が、その後の発展を支えた点である。 彼らの民族として民族性として特徴的なのは宗教商業を優先したことである。その最も顕著な例が島原の乱のとき原城にこもったキリスト教徒に対して幕府の命を受けて砲撃を放ったことである。これは長崎での貿易の優先的特権を保持するためにやったのであるがこのことでヨーロッパでは宗教心の欠除と激しく非難され、「日本回想記」ではヘンドリック・ドゥーフはその言い訳に大わらわになっている。 出島に閉じ込められた長崎オランダ商館ヨーロッパの商品や珍奇なものそして書物などの日本への唯一の窓口としても機機能したが、長崎におけるその存在は長崎の極めて金銭上厳しい取引を行っておりそこには互恵という関係よりも商業上の営利が極めて優先的される関係であった。 ただ、ナポレオン戦争によって長崎オランダ商館が十年間孤立したとき、長崎奉行の同情と庇護のもとに暮らした期間が例外的にあるだけである。 商業と海洋帝国の面では、17世紀はオランダの「黄金時代」として知られている。この時期、オランダは世界貿易の中心となった。特にオランダ東インド会社(VOC)は1602年に設立され、アジアとの貿易を独占し、香辛料や絹などで莫大な利益を上げた。加えて、アムステルダム銀行を設立し、近代銀行制度の基盤を築き、金融の中心地となった。さらに海軍力を強化し、世界の海を支配する海上帝国を構築するに至った。 文化面においても大きな発展を遂げた。芸術においては、レンブラントやフェルメールといった画家が活躍し、オランダ美術が大いに発展した。学術面では、哲学者スピノザや科学者クリスティアーン・ホイヘンスが重要な業績を残した。これらの文化的発展は、商業的成功と相まって、オランダの黄金時代を特徴づける要素となった。 しかし、18世紀に入ると状況は一変した。イギリスやフランスとの競争が激化し、オランダの商業と海軍の優位性は失われ、経済的にも衰退していった。さらに、フランス革命(1789年)の波及により、オランダでも共和主義運動が活発化した。特に「愛国派(パトリオッテン)」と呼ばれるグループがフランス革命の思想に影響を受け、社会改革を求めるようになった。その結果、1795年にはフランス軍の侵攻を受け、オランダはフランスの保護国「バタヴィア共和国」となった。この時期、オランダの旧体制は解体され、フランスの影響を受けた行政改革が行われた。 19世紀に入ると、ナポレオンの支配下に置かれることとなった。1806年、ナポレオンは自身の兄ルイ・ボナパルトをオランダの王とし、「ホラント王国」を設立した。しかし、ルイがナポレオンに反抗的であったため、1810年には直接フランス帝国に併合された。その後、ナポレオンの失脚により、1815年のウィーン会議でオランダは独立を回復した。同時にベルギーを含む「オランダ連合王国」が成立したが、ベルギーは1830年に独立することとなった。 ヘンドリク・ドゥーフ(Hendrik Doeff、1777-1835年)は1819年にオランダ政府からウィレム勲章(Orde van de Nederlandse Leeuw)を授与された。 授与の主な理由は、ドゥーフが1808年から1817年までの長崎出島オランダ商館長在任中に、以下のような功績を残したためである: 1. ナポレオン戦争期に、イギリス軍の干渉からオランダの対日貿易権を守り抜いたこと。特に1808年のフェートン号事件の際の外交的手腕が高く評価された。 2. 当時オランダ本国との連絡が途絶えた困難な状況下でも、日蘭貿易を継続させ、出島の運営を維持したこと
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