Pellew家に見る英海軍

Fleetwood_Pellew
2011y10m22d_171748513

父ペリューの華やかな軍歴
エドワード・ペリューは、1757年に生まれ、14歳で英海軍に志願、アメリカ独立戦争、フランス革命戦争、ナポレオン戦争に従軍、勇気と知略を兼ね備えた海軍士官としてメキメキと頭角を現し、出世の階段を登った。
Vaisseau-Droits-de-lHomme父ペリューの最も有名な海戦、フランス戦艦ドロワドロームとの戦い
当時の社会で国民的英雄だったことの証として、海軍物語として有名な「艦長ホーンブロワー」シリーズ(帆船時代の海戦に興味がある人の間では著名なシリーズ。作者はC.S.フォレスター)が1998年から2003年にかけてTVシリーズ化され、英米で放映されている時には、主人公のホーンブロワーがMidshipman(ミジップマン、士官候補生)として乗り組んだ軍艦の艦長として登場するほどである。言わば、ネルソン提督が救国の英雄として日本の東郷平八郎に例えるなら、エドワード・ペリューは実戦派の英雄として誰に匹敵するのだろう。山本五十六だろうか。そう考えると、日本海軍は日露戦争のあと、実戦を殆ど経験することがなかった海軍であることに気がつかされる。太平洋戦争においては、残念ながら名将は数えるほどしか見ることができない。山口多聞(ミッドウエー)、三川軍一(ソロモン沖海戦、またはサボ島沖海戦)、木村昌福(キスカ撤退作戦)ぐらいだろうか。
閑話休題。その国民的英雄のエドワード・ペリュー提督は、1805年に東インド艦隊の司令長官となり、1809年に地中海艦隊長官に転出している。ここに注目されたい。1808年のフェートン号の長崎襲撃は、父ペリューのもとで立案され実施された。息子フリートウッド・ペリュー指揮下のフェートン号がその任を担ったのは偶然でも何でもなく、息子に自分のような輝かしい軍功をもたらしたかった親心のせいである。
当時、英海軍内の昇進や立身出世はコネが幅をきかしていた。父エドワードは、若きフリートウッド、野心を隠そうともしない息子フリートウッドに、歴史に残る軍務と、もしオランダ船を捕獲した場合にもたらされる巨万の富を獲得する機会を提供したのである。

英海軍における富の蓄積システム:フリゲート艦艦長の場合

18世紀から19世紀にかけてのイギリス海軍では、艦長以下の乗組員が戦闘や敵船拿捕を通じて財産を蓄積するシステムが確立されていた。この仕組みは、戦闘による勝利が直接的な経済的利益に繋がるという特徴を持ち、特にフリゲート艦の艦長にとっては大きな収入源となっていた。

私掠船捕獲と賞金分配

英海軍では、敵国の商船や私掠船(私略船とも呼ばれる)を拿捕することで、乗組員全員が賞金を得る仕組みがあった。このシステムは政府公認であり、拿捕した船舶や積荷は査定された後、以下の割合で分配された。

  1. 艦長:拿捕した船や積荷の利益の約50%を受け取る。
  2. 士官たち:艦長に次いで、士官たちが残りの利益の一部を分配。
  3. 下士官・乗組員:さらに細分化され、上級水兵や一般水兵に分配された。

このシステムにより、艦長が得る利益は非常に大きく、一度成功すれば莫大な富を築くことが可能であった。

フリゲート艦が有利な理由

フリゲート艦は、その高速性と機動力から敵船を捕獲する任務に適しており、私掠船や商船を捕獲する機会が多かった。また、敵との戦闘で損害を抑えつつ拿捕に成功すれば、艦長や乗組員は一獲千金のチャンスを手にした。このため、フリゲート艦の艦長は当時の社会で非常に高収入な職業とみなされていた。

富の使い道

得た富は不動産の購入や豪邸の建設、さらには領地の取得に用いられることが多く、艦長の中には地方の名士や貴族に匹敵する財産を築く者も存在した。また、乗組員も母港に戻ると豪遊することが一般的であった。この経済的利益は、英海軍の士気向上や志願者の確保にも寄与した。

エドワード・ペリューの事例

フリゲート艦の艦長として知られるエドワード・ペリューは、敵船捕獲での分配に厳格であり、自らの取り分を徹底的に守る姿勢を持っていた。彼は僚艦が戦闘に寄与しなかった場合には取り分を認めず、その峻厳さから「富への貪欲さ」と評されることもあった。しかし、その能力と成果により、彼もまた莫大な財を蓄積した一人であった。

ペリューの手紙長崎襲撃時のペリューの手紙

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

上部へスクロール